明智光秀・細川ガラシャと丹後・宮津
明智光秀の三女として永禄6年(1563)に生を受けた玉子(細川ガラシャ)は、16歳で父の盟友である細川藤孝(幽斎)の長子・忠興に入嫁。天正8年(1580)、細川親子の丹後入国に伴い宮津で暮らしました。天正9年には、細川藤孝・忠興が、父・明智光秀や津田宗及、山上宗二、里村紹巴を招いて天橋立で茶会を開き、玉子(ガラシャ)は幸せな時を過ごしました。しかし、翌年、明智光秀が本能寺の変を起こすと、細川忠興は逆臣の娘となった玉子(ガラシャ)と離縁し、山深い味土野(京丹後市弥栄町)に幽閉。玉子(ガラシャ)の運命は大きく動き出しました。
細川ガラシャのその後
復縁した玉子(ガラシャ)は、大坂玉造にある細川屋敷へ移り住みます。そこで、カトリックの洗礼を受け「ドンナ・ガラシャ」(「恩寵」・「神の恵み」の意)の名を授かりました。
慶長5年(1600)関ケ原の戦いに先立って、ガラシャは敵将・石田三成の人質となることを拒み、自ら玉造の屋敷に火を放ちその生涯を終えます。戦国武将の妻として、明智光秀の娘であるが故に辿った数奇な運命、カトリック教義への傾倒と信仰を守り抜いたその生涯は、当時布教のために日本を訪れていた宣教師達によって、遠くヨーロッパの地で広く紹介されました。1698年、ウィーンの劇場でガラシャを主人公としたオペラが上映されるなど、彼女は当時のヨーロッパにおいて最も知られた日本人の一人であり、今も多くの人にその感動を与えています。